研究することとは何か、と今日考えた。なぜこのようなことを突然考え始めたかというと、研究発表用の練習会にて、とあることが起きたからだった。私の質問に対して、同席にいる同研究室の、俗に言う「嫌なやつ(Aとする)」から野次を飛ばされたからだ。この野次によって、多少不愉快な思いをしたが、工学部における研究とは何かと考えることができた。また、Aのような存在は常に身の回りにいるほうが、自分の成長になるのではないかと考えることもできた。

経緯の概要はというと、質疑応答のときに私が「研究結果の産業化」についての質問をしたところ、Aが「そんなこときかれないよ」と私に言った。確かに、私のしたような質問を発表当日にされる確立はほとんどないのだが、「工学系の学位を持つ人がこのことを前提に研究を進めていなくてどうする」と、思っていたので不愉快になった。今日の話題は、このことがきっかけになったものである。

工学系の研究者とは何を前提とするべきか。私はこの問いに対して、世の中の暮らしを支えることになる事象を研究し、産業化に役立てることであると答えるであろう。世の中の真理の探究、好奇心の追求は理学系の研究者がすることであると思う。世の研究はこのような定義によって二分されるのだと私は思う。おそらく逆に、世の中の研究というものを、暮らしに役立てることと、好奇心を追求することに分ければ、工学と理学に分類されるのだと思う。そして工学側の研究様式としては、暮らしに役立てることを前提とした上で、ある特定の分野での技術開発を行う。研究の指標はこのような舵取りをし、実際研究内においては、理学的な知識を用いて原因を探求し、解決策を導き出す。さらに次なる発展を求めて、考察を加える。というような形を持つべきなのではないかと思う。このような点を内心秘めていたため、今日のようなAの発言に対し、不愉快というか、これからの世を担う学生に対し危機感を覚えた。できれば、数多くの人と意見を交わし、様々な角度からの意見を聞いてみたいものである。

ここで、Aについての話に戻ってみる。確かに私はAのことを好意的に思ってはおらず、できれば何も言って欲しくないと思っているのが内心である。しかし、上記のようにAの発言によって、自分なりの考え方を多少なりとも深めることができた。この点からすると、Aの発言に感謝するべきなのだろうと思う。また、こういったAのような存在があることで、自分の理解、考え方を深めることができるのではないかと思う。そして、Aによって、どのようなことをいわれると不愉快になるか、何を言われたときAへの評価を見直すことができるか、これらが感じ取れたのではないかと思う。単純ではあるが、研究室での作業が終わり、ぐったりした中「お疲れ様でした」と部屋を出るときにいわれる「おつかれ~」という言葉には、Aであっても高感度があがるのだ。逆に自分にこれができているのかと考えると、できている気がしない。この点、Aは私よりも何歩も進んでいるではないかと思う。

研究室に所属するまでは、浅はかではあるが、どのような人とでも仲良くなれるはずだと思っていた。しかし自分の見ていた世界は、ある限られた一部分だけであったのだと、研究室に所属し、気づいた。もし時間を無限に利用することができれば、この命題は成り立つのではないかと思うが、限られた時間の中では、時間内に仲良くなれる人、ほかと比べて数倍時間をかけないと仲を良くできない人がいることは確かだ。今後、社会にでればありとあらゆる性格を持つ人と会い、共同で仕事をすることにもなる。日本人同士ならまだしも、文化や宗教がまったく変わる相手との付き合いともなれば、と考えると見当もつかない。ある程度は仲良くできるのかもしれないのだが、強い信頼を勝ち取ることができるかというと、まだ分からない。

私にとって、この研究室での暮らしは今後の生き方において大きな役割を果たすだろうことはいうまでもない、、、と将来なにかの本に書くかもしれない。